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 ヘヴィメタルという音楽にも様々な種類が存在する。例えば、メタリカ、メガデス、スリップノット、デフトーンズ、コーン、マリリン・マンソンなどは、商業的な成功を収めている。当然のように、そういったバンドやミュージシャンたちには、有名な"ヒット曲"や"ヒット作"が存在しており、一般リスナーを惹き込む強力な武器になっている。特に現代の日本人たちにとって、有名な"ヒット曲"や"ヒット作"は重要な決め手だろう。
 一方、売れていないアンダーグラウンド・シーンのヘヴィメタル・バンドたちは、全くヒットがない状況下で作品の宣伝活動をすることとなる。つまり、これは殆ど自殺行為のようなものであり、バンド側が精力的なライブを行ったとしても、新しいファン層が増える可能性は極めて低いのである。なぜなら、音楽シーンの流行に敏感な一般リスナーは、有名な"ヒット曲"や"ヒット作"がないバンドやミュージシャンたちには興味がないからだ。「興味が湧かない」と言ってもいい。アンダーグラウンド・シーンの陰鬱なヘヴィメタルが、愉快なドライブ中の車のラジオから流れてくるはずがない。
 こうした状況の中で、日本人がアンダーグラウンド・シーンのヘヴィメタル・カルチャーに手を出す機会はなく、誤った知識や情報が飛び交っている。例えば、有名なエピック・メタル・バンドとして、ラプソディー・オブ・ファイアやブラインド・ガーディアンなどの名前が挙がることがそうだ。また、日本人は、ドイツのエクリブリウムを本気でエピック・メタル・バンドだと認識している。グローリーハンマーやトワイライト・フォースなども立派なエピック・メタル・バンドである。音楽サイトで話題になるのは、バンドの過激なコスチュームやミュージシャンたちの奇抜なキャラクター性ばかりだ。
 日本のロック音楽のファンたちは、細分化したヘヴィメタルのサブ・ジャンルのルーツを本当に理解しているのだろうか。残念ながら、こういった曖昧な部分を訂正しようとする"真面目"な音楽ファンたちは少なくなった。

Metal/Invasion




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 ヘヴィメタルのジャンルのアルバムの中には、芸術や文学、歴史や映画などから影響を受けたものが多い。そういった意味では、アイアン・メイデンやジューダス・プリースト、ブラック・サバスやメタリカなどの作品は見逃せないものだろう。
 特にメタリカは、従来の映画をテーマとした楽曲を数多く作っている。その中でも、映画『カッコーの巣の上で』(1975)に影響を受けた"Welcome Home (Sanitarium)"は強烈だ。
 この楽曲は、後の名曲"One"の基礎となった存在であり、メタリカの歴史の中でも重要な位置にある。そして、その知性を感じるテーマの選択は、数多くのバンドやファンたちにも強い衝撃を残した。
 当時のメタリカのメンバーたちは、まだ十分に若かったが、それでも『カッコーの巣の上で』や『ジョニーは戦場へ行った』(1971)、『ジャスティス』(1979)や『シャイニング』(1980)などの映画に関する知識が深かった。現代の若者たちが親しむ娯楽といえば、お笑いやアニメ番組などが一般的だろう。常に時代とは変化していくものだ。

メタル・マスター




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ヘヴィメタルと人間の精神



ヘヴィメタルと人生の目的
 音楽論『ヘヴィメタルと人間の精神』は、従来のヘヴィメタルの本質を考え直し、それを過去と現代の視点で比較することから始まった。現代には音楽というものが溢れているが、どれも深遠な世界観を追求したジャンルという訳にはいかない。
 しかし、ヘヴィメタルという音楽は、これまでに人間の感情や生活に大きな影響を与えてきた。実際にヘヴィメタルと出会ったファンたちが、そこからよりポジティブな人生を歩み始めたという実話は多い。
 この『ヘヴィメタルと人間の精神』の中では、そういった人間の感情や生活とヘヴィメタルの関係性を考察し、最終的にはポジティブな結論へと辿り着いている。ここで本書が辿り着いた結論とは、ヘヴィメタルが人間に現実を学ばせ、その人生に意味や価値を与えるというものだ。
 実際のところ、『ヘヴィメタルと人間の精神』の表紙は、邪悪で不気味なイメージに包み込まれているが、中身はシリアスな研究書である。"ヘヴィメタルのシリアスな研究書"という点では、過去の『叙事詩的なヘヴィメタル』シリーズや『ヘヴィメタルを取り巻く社会』などと大して違いはない。
 これまでにヘヴィメタルという音楽は、視覚的なイメージによって様々な誤解を生み出してきたが、そういった出来事はこれからも繰り返されていくことだろう。何故なら、ヘヴィメタルとはダークな世界観が魅力の音楽だからだ。
 そして、その先に存在するポジティブなメッセージ性や、生きることへの希望となる要素を、社会の中の大勢の大人たちは、見逃しているのである。


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 ヘヴィメタルはアンダーグラウンド・シーンの中で重要な存在となっている。今ではこのジャンルがファンたちにも認知されており、ミュージシャンたちは更に高度な作品を作るだけの環境を得ている。
 ヘヴィメタルの魅力はその深遠な世界観にあるが、これはアンダーグラウンド音楽にのみ備わった要素である。深遠な世界観というものは、人間の本質に迫り、人生の意味や価値を考えさせられる力を持っている。
 現代のヘヴィメタル・シーンの中にも、シリアスなバンドたちは数多く存在し、そこにユーモアは殆どない。常に現代人たちは、楽観的な音楽、ネタになりそうなジャンル、有名人たちのスキャンダルなどを漁っているが、深遠なアンダーグラウンドのヘヴィメタル・シーンの中には、そういったものは存在していない。
 最も、人間が年老いた時、自らの中に知性と呼べるものがなければ、それを悲しく思うこととなる。そして、そうした無知の原因を作り出した過去を後悔するのだ。
 人間の無知を作り出すのは、これまでの楽観主義や怠惰な生活に他ならない。また、そこには趣味や娯楽の選択も深く関わっている。

Doomsword




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 世界の過激音楽は、特に常識的な大人たちや保守層、高齢者たちから嫌悪され続けてきた。そういった権力者たちは、過去に様々な力を使い、ヘヴィメタル・シーンに圧力を掛けた。そして、強い影響力を持った有力者たちの影響で、社会の中には、ヘヴィメタルに対する誤ったイメージが定着した。
 現在、ヘヴィメタルを取り巻く環境は、以前よりも遥かに良くなった。しかし、それでもなお、保守層や高齢者たちはこの音楽のジャンルを認めておらず、一方的な感情で嫌悪し続けている。また、そうした人間たちが、ごく普通のヘヴィメタルのファンたちに対して抱いている第一印象が"きちがい"である。
 この"きちがい"とは、一般的に異常者(サイコパス)や狂人などを指す言葉であり、その用途は様々である。
 過激音楽を敵視する大人たちは、ヘヴィメタルのファンたちに向かって、はっきりとした差別や偏見の意味を込めて、この言葉を口にしている。そういう人間たちにとって、"きちがい"とは、常識を理解できない存在であり、社会不敵豪奢に他ならない。

トゥーム・オブ・ミューティレイテッド




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 人間が音楽を聴く時には、そこにリラックス効果や楽しみなどを期待することが多い。こうした目的は、そこでヘヴィメタルという音楽を挙げた時には大きく変化する。
 一般的にヘヴィメタルのファンたちが求めているのは、自由の獲得や意思の解放である。そして、そこに加わってくるのが感情の爆発だ。
 常に抑圧された環境で過ごしている現代人たちは、このどうしようもない感情の捌け口を求めてる。結果的に、それはヘヴィメタルという音楽の中に、見事に叩き付けられている。
 ごく普通の人間なら、理不尽な現実や一方的な人間関係などに怒りを感じるのは当然である。それを感じない人間たちは異常だ。
 しかし、実際のところ、世間の人間たちは、ヘヴィメタルのファンたちを指して、「それを聴くのは異常だ」と言う。彼らの現実の中では、こうした過激音楽に関わっているファンたちは、例外なく"きちがい"なのである。"きちがい"の定義とは何だろうか。

Beneath The Remains -Remaster-




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 この社会の中には、陰惨な事件が溢れており、大人たちはその理不尽さに戸惑っている。そして、同時にそれらの問題が起きた理由を探し求めている。
 不条理な社会の中で頻繁に起こることは、悪い出来事の原因を誰かに擦り付けるという現実だ。ヘヴィメタルという音楽は、常にその対象となってきた。
 例えば、過去にジューダス・プリーストが体験した裁判騒動や、スレイヤーの歌詞に関する問題は、当時の社会の矛盾を浮き彫りにしていた。これらの事件は、社会の中で起きた理不尽な出来事を、全てヘヴィメタル・バンドのせいにすれば良いという、汚れた大人たちの行動が生み出した結末だった。
 そして、現代では、そういったヘヴィメタルに対する差別や偏見の目が身近に潜んでいる。ファンたちは、恰もそれが日常であるかのように、好きなヘヴィメタル・バンドの音楽を聴くが、周囲の人々は、常にそれを異常だと感じ取っている。
 また、そういった根強い差別や偏見に支配された一般人たちは、悪い出来事を全てヘヴィメタルのせいにすることに対して、殆ど迷いがない。何故なら、そういう人間たちにとって、ヘヴィメタルとは「悪」であり、「低俗」な音楽でしかないからだ。彼らはポップスやクラシックなどを最上の音楽だと思っているのだろうか?
 実際のところ、ヘヴィメタルが現代の音楽シーンの中でも、特に有力な擁護者がいないという点では、罪を擦り付けやすい対象であると言える。背後に有力な人物がいなければ、幾ら攻撃を加えても当人たちには何の影響もない。

ステンド・クラス




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 現代人たちは日常の中で音楽を聴き、それを自由に楽しむ権利を持っている。しかし、そこにメディアや他人からの影響が入り込むと、個人の意思は変化する結果となる。
 実際のところ、現在の社会の中で特に嫌悪されている過激音楽は、上辺だけを取り上げられて攻撃されることが多い。例えば、メディアの中でヘヴィメタルが批難される時、大人たちはそれを「騒音」や「悪」と形容する。しかし、そういった大人たちは、ヘヴィメタルという音楽を聴いたことすらないのだ。
 その音楽に触れていないからこそ、人間たちは勝手なイメージを作り出し、それを盲信することができる。そして、社会の中にそういうタイプの人間たちが増え続けることで、ヘヴィメタルの虚構は現実的な力を持つようになる。日本という国では、数は社会的な力を表している。
 今の日本の音楽シーンの中では、ヘヴィメタルに対して知識を持っている人間とそうでない人間がはっきりと区別できる。世間の人間たちは、わざわざ興味のないジャンルの知識を得ることはないのである。個人や集団の無知が、あらぬ誤解を招くことは、この社会の中では頻繁に起こる出来事だ。

Complete Studio Albums




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 ヘヴィメタルという音楽を表現する際、ファンたちは様々な言葉を選択をすることとなる。その中でファンたちから最も嫌悪されている表現が、「ヘビメタ」だ。
 この言葉は、ヘヴィメタルという音楽の本質を捻じ曲げた表現であるとして、日本のミュージシャンやファンたちからは特に使用すること避けられている。一方、実際にヘヴィメタルを聴いたことがない人々が、メディアの情報を盲信して口にするのは、常にこの「ヘビメタ」という言葉だ。
 このように、一般人とファンたちの間に明確な認識の違いがあるのは、そこにヘヴィメタルに関する知識の有無が存在しているからである。単純にヘヴィメタルという音楽に接していなければ、思わず日常的にメディアが使用している「ヘビメタ」という言葉が出てくるのは自然なことだ。

黒い安息日(リマスター)




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エピック・メタルの変化について...



 今日では、エピック・メタルというジャンルも拡大し、様々な事実や推測がある。しかし、実際に信用できる情報はまだ数少ないようだ。残念なことに、その情報の多くは、個人の推測であったり安易な想像に過ぎない。これまでに『METAL EPIC』で行ってきた過去のレビューに関しても、多くの個人的な要素を含んでいる。しかし、今ではエピック・メタルの情報が増加したため、事実に照合した検証も可能である。結果的に、今後のエピック・メタル作品の紹介などもより現実的になるということだ。

 例えば、長い間に渡り、我々はエピック・メタルの起源を知ることがなかった。しかし、近年では急速な情報ネットワークなどの発達によって、身近にもその歴史を知ることができるようになった。我々は過去の情報を探し、見事にマニラ・ロードやキリス・ウンゴルのようなバンドがエピック・メタルの基盤にあったことを見つけた。そして、ここからエピック・メタルの歴史を確認していった。こういった作業は『METAL EPIC』の得意な部分であるが、今では本誌が昔のスタイルを継承することはないようだ。なぜなら、現代では恐らく正確なエピック・メタルの資料が手に入るし、それを有効に使うことができるからである。そのようにして、徐々にではあるが、エピック・メタルの事実は明らかになるだろう。当然のように、ここには新しい事実も必要になる。

Metal Epic, Dec 2013
Cosman Bradley


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Cost Performance.



良い音でエピックメタルを聴くには
Creative_SBS_A120 昔からHR/HMのジャンルは音質が良い方ではなかった。ヘヴィメタルのシーンが本格的に拡大し始めたのは80年代初期であるし、それらの活動は地下を拠点とするものであった。バンドは少ない資金で作品を作らなくてはならなかった。故に音質がチープであることは必然的な結果であり、当時のヘヴィメタルのファンは、スピーカーの音量を限りなく上げる必要があった。アンダーグランド出身のバンドでも、後に大物になったもの──例えばアイアン・メイデン、メタリカ、ハロウィンなどのバンド──は、アルバムのヒットと共に楽曲の音質も向上していった。我々が音質に拘る理由は、それが作品の評価と決して無縁ではないからだ。発売して数年を経た作品がデジタル・リマスターで再発され、当時と印象が大きく変わったような事実上の"新作"は多い。ドイツのブラインド・ガーディアンが2007年の再発の際、第一作『Battalions of Fear』(1988)と第2作『Follow the Blind』(1989)に施したリミックス効果が絶大であるように、既に現代の音質状況は大きく変化している。しかし、一般的にHR/HMの音質が昔と比較して向上したとはいえ、その恩恵を受けることができていないバンドも未だ多く存在する。当『METAL EPIC』が追求しているエピック・メタルのジャンルでも、21世紀に相応しいとは思い難い音質を有する作品がある。ロジー・クルーシズの『Fede Potere Vendetta』(2009)やマーティリアの『The Age of the Return』(2005)などがまさにそうで、これらの作品は素晴らしい内容であるにも関わらず、音質の悪さが足を引っ張っている。80年代のエピック・メタルの歴史的な価値を持つ作品に関しても、音質面での問題は避けて通ることはできない。キリス・ウンゴル、マニラ・ロードといったエピック・メタルのシーンで最高の地位を築き上げているバンドですら、そのチープな音質は一般のHR/HM作品に遠く及ばないものだ。『The Marriage of Heaven and Hell』(1994)で成功を収めたヴァージン・スティールですら、世界各地のリスナーから音質面で疑問視されている。現代の我々にとって必要なことは、より安価で高音質を実現することである。CDアルバムの音質は変えようがないが、知識によって、環境を変えることができる。例えばコンポに2.1チャンネルのスピーカーを付け加えるだけで音質は劇的に向上するし、その効果はエピック・メタルの作品にも通用する。時代は確実に進歩しており、現在では高音質のスピーカーの値段も非常に安価になった。値段ではクリエイティブ(Creative)やロジクール(Logicool)のスピーカーが、高いコストパフォーマンスで人気を博している。僅か3000円足らずの出費で一段良い音質を楽しめるのなら、過去の作品がリマスター再発されるのを敢えて待つ必要はない。これらはヘッドホンジャックによって、意図も簡単に迫力のある音質をリスナーに提供する。我々は知らないだけで、後悔するということがあまりにも多い「もう少し早くスピーカーを買っていればよかった」



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 コスマン・ブラッドリー博士は、記者の「何故文章による総評に拘るのか」という質問に対し、以下の記事を抜粋した。



『METAL EPIC』誌2010年10月23日号より:

 HR/HMのレビューは、古くから行われてきた作業であり、貴重な情報源に等しかったが、時代と共にレビューの方法も変化しつつあるようだ。昔の音楽雑誌を覗いてみると、如何に文章でHR/HMの作品を解説しようかという試みが顕著である。過去のインターネットが普及していないこれらの時代では、バンドや作品の情報量も乏しく、ヘヴィメタル作品は特に購入しなければ聴くことが出来なかった。
 しかし現代、無料動画サイトではあらゆるバンドの楽曲を視聴することが可能となり、我々はレビューの方法を変えることを強いられた。あるいは、より簡易な方法へとHR/HMレビューが移行していったと述べるのが正しいであろう。我々が機能的な生活必需品を即座に購入しようとする動機であるように、ヘヴィメタルのレビューも簡易な方向性へと移り変わる定めにあったのだ。文章で必死めいて作品の内容を伝えようとしていたHR/HMレビュー記事は極端に少なくなり、コードをコピーして貼り付ける動画が作品の内容を饒舌に語るようになっていった。記事に動画を貼り付ける作業は、丁寧な文章を執筆するよりも遥かに楽な作業に落ち着き、制作時間は大いに短縮された。その間、我々は別の作業に勤しむことが可能である。かくして、我々はより多くのHR/HM作品を知ることとなり、検索機能によって即座に希望する楽曲を視聴することが可能となったのである。
 視覚は聴覚に勝るといわれるが、HR/HMレビューに関してもそれは同じであった。目を細める文章を読むことに比べ、動画による視聴の方が有益である事実は既に疑いようがない。ヘヴィメタル作品の文章によるレビューはあくまで個人の感想に過ぎず、動画は確実な信憑性を所有している。ヘヴィメタルに限らず、音楽の無料動画を扱ったサイトの客足は非常にいいようだ。ならば我々は自らのブログに動画を貼り付け、簡潔な言葉と共に、バンドという形態を有する人間が心血注いで完成させた作品をざっくばらんに紹介することは、当然の成り行きであろう。




 
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 こちらから手を伸ばさねば理解さえできないものもある。世俗社会で受け入れられないものも存在する。普遍的な社会の中では、必要でなくとも生きてゆけるものがある。しかし、それらを受け入れ、生涯を捧げた場合、私達は冷徹な逆境と闘っていかなければならない。ヘヴィメタルと現実社会も例外ではない。

 一般のCD店を覗くと、ヘヴィメタルの存在が全く見当たらないということがある。レンタル店には、必要最小限のアルバムしか置いていない。これがインターネット時代が訪れる以前だったならば、ヘヴィメタルのファンはその怒りを消化できずに、酷い幻滅と脱力感を覚えるだろう。自分たちがメタルファンであること自体が不適切だと思えてくる。当然の如く、ヘヴィメタルがラジオや音楽番組で取り上げられるというケースは、一部を除いて殆ど皆無である。常にラジオで掛かるのは、色恋沙汰に彩られた流行のポップ・ソングだ。街行く若者は、その流行歌を友人や恋人と楽しみ、青春の思い出として歓喜に浸るのである。しかし、この世界には、必ずしも大多数を占めるそれらの人間には属さない向きがいる。いわゆる"アウトサイダー"であるその者らは、ラジオから流れる流行歌をどう思っているのだろうか。世俗の風潮の恐ろしいところは、普段何度もラジオやテレビCMで流される楽曲のことを、無意識のうちに"良い曲"であると思いこんでしまうことだ。これは、ある種の経済戦略の一環として、巨大なメディアの影響力を顕著に示している。実際に、テレビCMで流れる曲がチャートの上位にランクすることは少なくない。このことからも、私達が無意識の範囲でメディアに影響されていることが証明できる。
 なにも影響を受けることは決して悪いことではない。例えばハワードもエドガー・ライス・バロウズに影響を受けているし、H・P・ラヴクラフトもポーに多大な影響を受けている。影響力を知的に消化し、発展させていったのが過去の作家たちの功績だったのである。問題であるのは、影響力の範囲が「個人的なレベル」であるのか、「集団的なレベル」であるのかということである。上記に挙げた作家たちは、個人的な影響力を反映し、数々の傑作群を生み出した。では、改めて考えてみるとしよう。集団的な影響力がメディアを媒介として発揮された場合、私達はいかなる状況に陥るのか。ラジオやテレビCMで流れる曲ばかりがチャートに入り、ヘヴィメタルのようなクラシカル──言葉を変えれば古典的──な音楽が全く認知されなくなっていくのだ。現在でも既にその効果が出てきていることは明白であるが、未来では、更にその侵攻が進み、視野が狭まった若い世代は、巨大な影響力のなすがままに音楽を選択する恐れも出てくる。つまりは、志望校を両親に決められた息子や娘のような状況に陥るというわけである。もしそのような未来が訪れるのならば、賢明なヘヴィメタルファンは、その世界を永久に去るか、もしくはこれまでと同様に地下でひっそりと生き長らえるかのいずれかである。ヘヴィメタルという多文化な視野を通せば、このような未来の可能性の一旦も描き出せる。願わくば、より多くの人々が集団的影響力の傘下に陥ることなく、自由な個性を主張していってもらいたい。


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 ヘヴィメタルという音楽におけるイメージを考慮してみよう。
 我々が抱くヘヴィメタルの一般的なイメージには、"攻撃的"要素と"暗い、重い"という世界観が挙げられる。いずれもヘヴィメタルという特異なジャンルを良く捉えている。イメージには常に具体性が求められるという訳である。このように第三者から客観視したヘヴィメタルのイメージには、大衆一般としての偏見や固定観念が必ずしも根底に潜んでいる。前に記述したスレイヤーの例がいい見本となってくれているが、今回はその"イメージ"として見落とされている、ヘヴィメタルの密かなる魅力について書いていくとしよう。


ブレイヴ・ニュー・ワールド
 ヘヴィメタルの攻撃的な音楽性のインパクトが先行するというケースは多い。実際にメタルを聴くとき、いかに速く、過激であるかが問われた時代もあった。スラッシュやデス系メタルのファンはその典型に位置するといえる。これはメタルファンとして刺激を求める最もな姿勢であり、メタルにおける速さやヘヴィネスの重要性を物語っている。加えてメタルには、シリアスな世界観が常に付きまとう。グルーヴィーなサウンドにヘヴィな世界観ともなれば、まさにそれは大人でも楽しめる音楽である。そしてそれに追随してくるのがドラマ性である。先述した攻撃的なサウンドに暗く重い世界観、そこにドラマティックな要素とくれば何かに思い当たる。そうこれは一種のストーリーだ。元来ヘヴィメタルには、"ただ過激な音楽をやっているのではない"という構造があった。それは世間一般には知られるはずもなかったが、熱心なファンのみが認知していた"隠れたメタルの魅力"だったのである。伝統的なメタルではこのドラマティックなサウンドを「硬派なドラマ性」と形容し、特にポピュラーな音楽に退屈しきっていた者たちには好まれた。その「硬派なドラマ性」はアイアンメイデンの時代にまで遡ることが出来る。ドラマティック・ヘヴィメタルにとって彼らはまさに第一人者だった。メイデンの硬派なサウンドとシリアスなドラマ性が多くのファンに認められているのは想像に容易な事実である。また彼らの場合は商業的な成功も収めているのだがら、ドラマ性を有するヘヴィメタルの需要が大きいという理論がより現実味を帯びてくる。また、こうしたシリアスなドラマティシズムを体現するメタルバンドには、根強いファンが付き易いというのも興味の対象だろう。メタルシーンに君臨するバンド達を考えてみると、そのバンド歴が長いメタルバンドほど、ドラマティックなサウンドを有しているというケースは非常に多い。しかし逆説的に、シーンを賑す若いバンド達も高水準なドラマ性を有しているのだから更に面白い。
 老舗メタルバンドと新鋭メタルバンドのドラマティシズムの違いは何であろうか。その答えを探すには、メタルバンドの区分けされたジャンルを確認するのが近道となってくる。多くの若いメタルバンド達がメロディック・パワー・メタルであるのに対し、老舗のメタルバンド達は正統派のスタイルをプレイしている。もちろんこの結果は必ずしも定説ではないということを付け加えておくが。要するに彼らのドラマ性の違いは"硬派の度合い"にある。アイアンメイデン、ジューダスプリースト、マノウォー、ランニングワイルド等が重厚なドラマ性を内包しているというのなら、ソナタ・アークティカ、ドラゴンランド、ダークムーア、フリーダムコール等のバンド達はより即効性のあるドラマ性を内包しているといえよう。ただ新旧どちらにも共通しているのは、それが素晴らしく魅力的なドラマティック・メタルということである。良質なアンダーグラウンドのメタルバンドが溢れ返る現在のヘヴィメタル・シーンでは、ドラマ性の選択すら、個人的な問題に過ぎないのだ。


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 ヘヴィメタルを長く聴き込んできたファンならば、必ず一度はヘヴィメタルの価値について考えたことがあるはず。私もメタルについては様々な考察を抱いている向きだが、上手く答えを出せたためしがない。
 メタルの価値を考える時、先に必ず意識するのはワールドワイドな音楽してのメタルである。内向的な音楽としてのヘヴィメタルではなく、外部にも影響力を持つ音楽としてメタルを見た場合に、その捉え方は大きく変わってくる。
 例えば私たちの周囲にはメタルファンがいなかったとしよう。たった一人となったメタルファンは果たして悲しむだろうか。私はメタルファンの視野は一般人と比べた際に広いという結論を疑ってやまない。ヘヴィメタルとは決して一国の音楽ではなく、世界中に通用しファンを抱いているスケールの大きな音楽であるという事実は、既に承知のことだ。世界中のファンはメタルで精神的に繋がっており、彼らは兄弟(ブラザー)とも呼ばれる。ここにメタルの真価の一つがあるのかもしれない。
 もちろん私はメタルをよく聴き、また自負するが、世界中の真のメタルファンはもっと多くのメタルを聴いて考えているだろう。世界にはメタルに人生を捧げた勇敢な者達が少なくない。私は今まで聴いてきたメタルを改めて思い返してみることをよくするのだが、いつも確かな事実に直面する。驚くことにそれは先程書いたことと共通している。メタルの世界は広いということである。無数の可能性がメタルには開かれており、自分がどれを選択し愛聴するのか判断するのは難しい程に。
 しかし基本的に私はメタルなら何でも好きな人間である。根本的にメタルの思想や精神に共感できる、その許容がメタルファンにはあるのである。まずは、メタルが好きであるか、さらに話を突き詰めればメタルにすべてを捧げる覚悟があるか、ヘヴィメタルは我々大衆にそう問いかけている。
 多くの者はメタルを非難するが、一方ではメタルにすべてを捧げる者もいる。それは、メタルにはすべてを捧げることができる要素が必ずあるからに他ならない。自分が一生信じていきたい、貫いていきたいと思うところがあるからこそ、真のファンはメタルを聴き続けるのである。


hammerfall1 メタルには攻撃的な部分が多くある。無論それもメタルの魅力の一つだと断言できる。
 攻撃的な部分によって、私たちの抑圧された意思を解放することにメタルはかなり貢献していると言っていいだろう。これは多くのメタラー達が信条とする、"自由のない世界に生きていても何の価値もない"という考え方から来ている。
 私も非常に同意できるもう一つの魅力は、多種多様な文化が垣間見れるということである。これらは分極化された様々なメタルのスタイルに見ることができる。メタルの多くは型にはまっているが、これはあまりにもメタルの種類が多いためやむを得なかったといえる。また人間の基本概念として、何でも型にはめるというパターンが出来上がっているためである。わが国では特にその傾向が進んでいるが、今は特筆すね気ではない。
 メタルは様々な国や地域から勃興している。恐らく最初にメタルの原型が誕生したのはブリテンで、そこからメタルの歴史が始まった。最も、メタルに垣間見れる民族的思想は、何世紀も前から人々に根付いていたものである。そうした古代人の意思を現代に受け継ぐのがメタルであり、それを信じるファンもまた同じなのだと思う。この様に考えるのは私のような中世の愛好者ぐらいなのかもしれない。
 しかし一番大事なのは単純で、メタルを感じるということに最後はなっていくのである。私はメタラー達が何の意味もなくメタルをプレイしているとは思えない。これはあらゆることにいえることだが、メタルは他のものを圧倒してこの部分が強い。ファンやバンドの意思が顕著に表れている……とでもいっておけばよいのか。マネジメントの意思や流行に流されている音楽(別にそれらが優れていないというわけではないが、現代ではそのスタンスがあまりにも多いように感じる。メタル界では逆に、流行に流されたり一般受けを狙ってポップ化したアルバムはことごとく失敗している。Megadethの「RISK」やGRAVE DIGGERの「DIGGER」が良い例だろう)とは一線を画している。
 メタルは常に不変であって、私たちのような熱心なファンを楽しませてくれる。メタルは信じる価値のある音楽だ。このようにメタルを振り返ってみて、私も一生メタルファンでありたいと改めて思っている。何事も、一度立ち止まって見てみるというのは重要なことだ。


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